神戸地方裁判所 裁判長様
陳述書
1、私は、平成20年2月、神戸地検に国税徴収法違反(仮装譲渡)で逮捕され、その後3月に起訴され、同年6月に有罪判決(懲役1年6ヶ月・執行猶予5年)を受けました。
この事件は、共犯者の赤松が有罪(懲役1年・執行猶予3年)、同じく共犯者で黒幕として上脇市会議員に有罪(懲役1年6ヶ月・執行猶予3年)の判決が下されました。
私は自分が前年風営法違反で逮捕・起訴され有罪となり、執行猶予中の身であったため、実刑だけはなんとか逃れたいとの思いから、検察の思惑通りに「上脇議員に犯行を教えてもらった。共犯者の赤松も上脇先生に紹介してもらった。」と嘘の証言をして、全く事件に関係のない上脇先生を巻き込んでしまったのです。
上脇先生の裁判でも、検察に言われる通りの嘘の証言をして、上脇先生を有罪にし、議員辞職、自己破産という最悪な人生にさせてしまいました。本当に申し訳なく謝ってもすむことではないと十分承知していますが、私が生きているあいだに真実を話して、上脇先生の無実を証明したいと心から念じています。
2、まず、今頃になってなぜ私が真実を話そうと思ったかということからお話しいたします。
私は、今回の事件で全く関係のない上脇先生を巻き込んだことにより、私の裁判の判決文でも明らかな通り、本来なら実刑になるところを、情状を酌量されて5年間の執行猶予がつきました。
その後も常に上脇先生には申し訳ない気持ちがありましたが、真実を話すと、また検察に逮捕され、今度こそ実刑になって刑務所に入れられる、との恐怖から今まで黙っていたのです。その執行猶予期間も今年の6月で過ぎました。
私は、平成19年8月末に風営の事件で逮捕されて、5軒の店も財産もすべて失ってしまいました。その上、今度は国税の関係で逮捕され、心身共に最悪の状態になりました。
私はその後も商売に失敗し、交通事故にあったりして生きていく気力がなくなり、妻を道連れに自殺を図りましたが失敗して2人とも生き返って、神戸でひっそりと夫婦で暮らしておりました。今年の初めに身の回りを整理して、いつ死んでもいいように身支度をしておりました。その時、今回の事件の関係書類も初めて見返しました
そうしているうちに、私のせいで無実の罪をかぶった上脇先生のことが気になり、死ぬことを思えば検察の脅しも怖くないと思い、私が生きているうちにお詫びをし、真実を話して冤罪をはらさなくてはと思い立ち、上脇先生の連絡先を調べたのです。
3、私に、今回の脱税の仕方を教えてくれたのは、本当は顧問税理士のY先生です。
Y税理士さんは国税のOBで、経理もきちんとしてくれるので信用し顧問になってもらいました。
私は平成13年の脱税事件で追徴税を受けて、その後毎月の税金の支払いをしていましたが、平成16年の年末ごろには売上も悪く支払いに困っていたのです。
Y税理士は、弱っていた私に、「西川社長、1億円も払ったらもう十分やで、サンゴールドがなくなったら国税も税金を取ることができないよ」「誰か別の会社を作るかして、サンゴールドがなくなれば仕方がない」とやり方も教えてくれました。
それは平成17年の1月頃、場所は私の事務所で、行政書士の恒松先生も一緒にいた時で、Y税理士が私と恒松先生の2人に話してくれたのです。
私は、自分が国税に1億も払っていたと聞いて本当に驚きました。
会社の経理は、全てY税理士に任せていたので、私自身はいくら払ったかは知らなかったのです。しかし当然にY税理士は支払った金額も把握しており、今後も売上が上がらなければ、国税の支払いは不可能だということを私に話してくれました。
それで、別に会社を作って、サンゴールドを誰かに譲ればごまかせると知恵をくれたのです。
後で、恒松先生と「さすがは、国税出身のY税理士や、1億も払ったらもうええやろと言ってくれた。サンゴールドをなくしたら何とかなるということやで、これで考えてみるわ。」と話しました。
恒松先生とは、その後も風俗営業の許可申請を頼んでおりますし、何度も酒の席などで、Y税理士の言った「西川社長、1億円も払ったらもう十分やで、サンゴールドがなくなったら、国税も税金を取ることができない」という言葉を話題にしていましたので、今回の脱税の手口の発案者はY税理士の提案だということは、よく知っていると思います。
Y税理士には、サンゴールドの経理の全てを任せており、会社の経理担当も、多い時は6人おりましたが、景気が悪くなって、最後は私の娘2人だけに減員していました。
下の娘は、毎日Y先生の事務所へ売上を報告して、あわせて経理の基礎を学んでいました。
当然、サンゴールドの方針についてもY税理士に相談をして決めていました。
当時私は、黒の手帳を持っており、事業の内容や、家内の病状などをメモしていました。
この手帳は風営法違反の時に兵庫署に持って行かれ、その後検察が押収しています。(検察庁1846・19年符第115号・被疑者 西川聖史・差出人等 西川聖史・兵庫警察署送第416号)
手帳の平成17年10月11日頃のページには、「Y先生に話、法人をどうするか、店舗譲渡金額、債権額との関係について、カード入金は、銀行は?印は?」と記入しています。これは間違いなく私の字で、私が書いた記憶があります。
この頃は、Y税理士の提案通り、私が赤松さんに負債が有り、その借金の代わりに店の権利を渡すとして、赤松さんの個人名義の営業許可を取得していたあとの話です。
つまり、国税を騙すために、名義を赤松さんにしたのですが、残ったサンゴールドの会社をどうしたらいいかということをY税理士に聞いたことを示しています。
確か、私が赤松さんから、度々資金を借りて、総額2000万円の借金があることにしたと思います。細かいことは、赤松さんがY税理士に聞きながら、国税への説明資料を作成したのです。
そのおかげで、平成18年に国税は、追徴税を取るのを諦めたのです。
もし、平成19年夏の風営法違反がなければ、今回の事件は明るみに出ることはなかったと思います。
4、その前後に、顧問弁護士のM先生にも相談しましたが、「会社を破産させるしかないな、費用は600万円ぐらいかかる」というので、とてもそんな金はないし、Y税理士の提案に従って、知人のY.Hさんに頼んでシンセイエンタープライズの社長になってもらい、会社を設立しました。
そのころ、Y.Hさんは経営していたスナックを辞めて私の店を手伝っておりました。
女性ですがしっかりしていますし、私の周りでは1番信頼できたので、彼女の借金も肩代わりをしてあげたり、また私の経営方針も理解していたので、ビジネスパートーナーとしてやっていけると考えて、私がY.Hさんに直接頼みました。
私自身が、Y.Hさんに話をして、住民票や印鑑証明書、実印などを事務所に持ってきてもらい、名前は忘れましたが司法書士に頼んで会社を設立したのです。
上脇先生の裁判で、Y.Hさんが「上脇先生に社長になるよう頼まれた。」と証言したと聞きましたが、それは事実ではありません。
Y.Hさんは、何とか私の罪を軽くするためと、赤松さんへの恨みから上脇先生もぐるやと勝手に思い込んでいたからそんな証言をしたのだと思います。
それに、Y.Hさんが新開地で開業した焼き鳥屋は、全て私が資金を出していたので、もし私が実刑になれば、Y.Hさん自身もたちまち資金繰りや、日々の生活に困りますので、私をなんとか助けたい気持ちで、上脇先生に罪を着せれば、私が実刑にならないと考えて嘘をついたのだと思います。
上脇先生の判決文(11ページ)
「信用できる西川及びHY.Hの本件に先行する事実についての証言にあるとおり、被告人は先行するシンセーエンタープライズの設立に関与していた事実が認められるから、前記認定事実に加えてこの事実も相まって優にその犯意は推認できるものである。」
これも判決が間違っています。
Y.Hさんの証言も事実と違います。 もちろん、私の証言は、当時検察の作文通りに作成されていますので、嘘です。
シンセーエンタープライズの設立に上脇先生の関与は全くありません。
Y.Hさんの社長も私自身が決めて、彼女に頼んだのです。
シンセーエンタープライズの風俗営業許可申請は、いつも許可関係の書類作成を頼んでいる行政書士の恒松先生に頼んだところ、後輩のM先生を連れて私の事務所にきたのです。
二人で書類を作り、Y.HさんとM先生が兵庫署に申請の相談に行ったあとから、会社設立書類の不備(出資者が西川本人)が見つかりました。
M先生から連絡が有り、対策を考えるということで事務所に恒松先生らが集まることになったのです。
この時、私は恒松先生に「できたら、上脇先生もお願いしてください。」と頼みました。
ちょうど、行政書士の会合か何かあった時で、上脇先生も恒松・M先生と一緒に夜遅がけに私の事務所に来てくれました。
話としては、「このまま、許可申請しても、警察は調査をして不許可になる。すぐに、許可申請の取り下げをすることだ。」と決まり、30分ほどで解散しました。
次の日にM先生が兵庫署に許可申請の取り下げをしたのです。
これが平成17年の4月21日頃のことです。
それから、Y.Hさん個人での申請を考えたのですが、M先生は「一度Y.Hさんを連れて兵庫署に行っているから、名義貸しがバレバレになる、私にはとてもできない」とはっきり断られました。
上脇先生の判決文で(3~4ページ、2)
「時期は定かではないが、そのころ、M、ないしは恒松行政書士からその旨の連絡を受けた被告人が、西川の経営するサンゴールドのある事務所を訪れた際、西川は、被告人に対し、「適当な人はいませんかね。」と、別の候補者をお願いしたところ、被告人は赤松の名前をだし、自分から赤松に話す旨を言われたので、「被告人の推薦なら、信用度については心配要らない。」と思い、被告人にお願いすることにした。」
とありますが、これは検事の作文で、事実ではありません。
上脇先生が1人で事務所に来ることなどはないのです。
これは、4月の20日ごろに恒松・M先生と一緒に事務所に来られた時のことと混同しているものと思います。
私も、検事に取り調べで責められて、調書の内容の細かいことはよく覚えておりませんが、もしこのようなことが書かれてあれば、それは私が実刑を免れたいために、検事の作文の通りに調書に署名したからです。
この判決文の内容は、上脇先生が罪を犯したという大きな証拠になっており、嘘をついた私にすべての責任があります。
しかし事実は赤松さんには私が電話をして、頼んだのですから、判決文にあるように、私が上脇先生に「適当な人はいませんかね。」というくだりは真っ赤な嘘です。
赤松さんに私が名義人を依頼したいきさつについては、次に詳しく話します。
5 Mさんに「Y.Hさんでは許可申請はできない。」と言われて、私は本当に参ってしまいました。
病弱な妻の看病に疲れ果て、5店の経営を一人で切り盛りして、おまけに国税の支払いに追われて、私は八方ふさがりの窮地に立っていました。
このころは、まともに布団で寝たことはなく、篠山の自宅と新開地の店の往復で、疲労がたまると車の中で仮眠して暮らしていました。
ほとほと困った私は、Y.Hさん以外で信用できる人物はと考えたときに、真っ先に浮かんだのが赤松さんでした。
そうだ、やり手の彼ならば、店の経営もやってくれそうだ、今は、事業をやめて、フリーになっていたはずだ、よし彼に頼もうと決めました。
ただ、やはり名義人になって私の店を任せるには、何か安心できるものが欲しい。
それには、上脇先生に頼んで、赤松さんに手伝ってもらうことにすれば、赤松さんも上脇先生の顔を立てて、頑張ってくれるだろうと思い、上脇先生に電話をして、「大事な話があるので、10分だけでも時間をください」と頼みますと、上脇先生は「西川社長、どうしたんですか、議会中で時間が取れないんです。電話ではダメですか。」と渋っていましたが、私としてはどうしても顔を見て直に頼みたかったので、「お願いします、少しの時間でもいいのです。近くまで行きますから。」と粘って、上脇先生が指定した場所に向かったのです。
平成17年4月25日の夕方、私たちはJR元町駅構内の喫茶店で会いました。
小雨が降る中、元町駅の喫茶店に入り、疲れ果てていた私は、2階の客席で上脇先生を待ちました。
私の姿を見た上脇先生は、「西川社長、どうしたんですか、かなりお疲れのようですね。」と声をかけてくれました。
私は、「実は私の体もしんどいし、家内の看病でクタクタです。このままでは、倒れるかもしれません。それでお願いなんですが、赤松さんに店を手伝ってほしいのです。先生から赤松さんに話してくれませんか、他に私の周りにはしっかりしたものはおりません。」と頼みました。
私としては、最初に赤松さんを紹介してもらったのは上脇先生ですし、2人は学校の同級生で友達だし、今まで私が頼みごとなどしたことがなかったのできっと聞いてくれると思っていました。
しかし、上脇先生はしばらく私の顔を見て考えていましたが、「せっかくの西川社長の頼みでも私はこの話は赤松君にできません。赤松くんは人から言われて、はいわかりましたというタイプではないのです。
それに、最近では私より赤松君の方が頻繁に来ているんでしょ。大丈夫。西川社長が自分で赤松君に言った方がいいですよ。」ときっぱりと断られました。
この時は、今までの付き合いから、これぐらいはしてくれるだろうと思っていたので、正直、「なんでや、これぐらい聞いてくれてもいいのに、冷たいやないか」とがっかりしたことを覚えています。
上脇先生と会っていた時間は、多分10分ぐらいの短い時間で、二人共注文したホットコーヒーも残していたほどです。
上脇先生は、急いで先に帰られましたが、私はしばらく席に座って放心状態でした。
上脇先生の判決文で、(9ぺージ(2))
「西川との喫茶店での短時間のやりとりについて 中略 そもそも事前に、忙しい被告人をわざわざ呼び出して、口利きを頼む必要などなかったはずであって、被告人の述べる、このような西川の行動は全体として不自然という他なく、前期の依頼があったとの事実は認め難い。」
と記載していますが、これは判決が違います。
私が、上脇先生を元町の喫茶店に呼び出して、赤松さんに手伝ってもらいたいと頼んだことは、まぎれもなく事実です。
確か、上脇先生の裁判の時にも「元町駅の、あれですか。」といったような証言をしております。
それほど、私にとってはショックなことでした。 上脇先生には、見事に断られたことも本当です。
今では、やはり元県警で神戸市会議員の上脇先生らしい判断だったと納得をしております。
結局、裁判できちんとはなさず、検察の言われた通りに嘘の証言をした私がいけないのです。
6、 上脇先生に断られた私は、しかたなく自分で赤松さんに電話をかけて仕事を手伝ってくれるように頼み、翌日に赤松さんから電話があり神戸駅で待ち合わせて、私の事務所で会いました。
この時、赤松さんは、手にした文庫本(風俗営業の儲け方とかの題名だった)を私に見せて「西川社長、もうちゃんと勉強してきましたよ。」というので、本を読んで儲かれば世話はないのになあと思ったことを覚えています。
事務所でいろいろと、商売の話をしましたが、赤松さんの方も「西川社長、仕事をさせてくれませんか、なんでもやりますから、」というので「実は、私も税金の支払いでまいっているんや、誰かに店をやってもらいたいんや」と店の内情を話したのです。
赤松さんは「私で出来ることなら、お手伝いしますよ」と言ってくれましたので、困っていた私は「渡りに船だ」と思い、赤松さんの申し出を受け、名義人になってもらうことにしました。赤松さんは5月の連休も店に来て仕事の様子を見ていましたので、これはやる気があるな、これなら名義人になってもらって商売が軌道に乗れば、わたしも安心できると期待していました。
上脇先生の判決文では、(4ページ・4)
「Mは、前期取り下げから1週間後くらいに、恒松行政書士から、個人でやることになったみたいで、事務所に来てほしいとのことだとの連絡を受け、その打合わせのためにサンゴールドの事務所に行った。Mは、今後は表に出ないと言ったので、恒松行政書士が「その申請手続きをやります。」というと、その場に居合わせた西川と被告人は、「それで頼みます。」といって、これを了承した。その相談中に、赤松もその事務所に訪れた。」
さらに判決文(8ページ・2(1))に
「同年4月にサンゴールドの事務所で西川と会ったと述べる件について信用性の高い前期Mの供述調書謄本によれば、西川、被告人、M、恒松行政書士がサンゴールドの事務所に集まったのは同年4月29日頃であり、しかも、既に許可申請を取り下げた後で、かつ赤松もそこで同席して赤松を新たな経営者とする許可申請のやりとりもあったとの事実が認められ、これと明らかに矛盾しており信用できない。そして、その場に被告人が同席していたとなれば、同年5月になって恒松行政書士から赤松が名義貸しをすることになったと、はじめて聞いたといった話もこれにそぐわない。」
と記載して上脇先生を有罪にしていますが、これは完全に事実と違います。
なぜなら、ちょうどその頃に私が赤松に電話をして、私の事務所で赤松と会って二人で話し合って、赤松が名義人になることが決まったのが4月28日ごろだったからです。
これが連休前というのははっきり覚えていますので、判決文は間違っています。
それに連休の間は仕事が忙しく稼ぎ時で、しかも警察の許可担当窓口も休みなので、打ち合わせどころではないのです。
この、赤松さんとの顔合わせは判決文にある4月29日ではなく、本当は連休明けの5月9日なのです。
M先生が勘違いしたのか、上脇先生を罪に落としたい検察がM先生を誘導したのか、私にはわかりませんが、いずれにしても真実は4月29日ではなく5月9日ごろです。
判決には、「信頼できるMの供述調書謄本」とありますが、これも変な話です。
M先生はやはり、兵庫県警出身で名義貸しをすれば、風営法違反になることをよく知っているはずです。ですから、私が、「Y.Hさんの個人名義で申請してください。」と頼んでも、名義貸しがバレバレになると頑として断ったぐらいです。
私は、恒松・M先生に対しても、名義貸しという言葉は一言も口にしておりません。
両先生もそれについてはなんとなくわかっていても、違反にならないかと聞くことはありません。 風俗業界では、「名義貸し」はよくあることで、行政書士も仕事と割り切って、詳しい内情などは聞かないで許可申請の書類作成をするのが常なのです。
私が、恒松先生に渡した報酬は、1店舗25万円で合計125万円です。
ですから赤松さんの名義人の時も、表に出るのは恒松先生で、M先生は兵庫署に行くのをはっきりと断っていました。
おそらくは、M先生は検事に名義貸しのことを追及され、風営法違反で逮捕すると脅されて、検事の言う通り上脇先生に不利な証言の調書に署名せざるを得なかったのだと思います。
事実を申し上げますと、私が恒松先生に電話したのは間違いなく連休明けです。
「今度は個人で、風俗営業の許可申請をお願いします」と連絡して私の事務所で、連休明けの平成17年5月9日ごろ、赤松さんとの顔合わせをしました。メンバーは私、恒松・M先生、上脇先生と赤松の5人です。
私が頼むのはいつも恒松先生で、Mさんのことは電話番号も知りません。
恒松先生と上脇先生は日ごろから仲がよく、また私に上脇先生を紹介してくれたのは恒松先生だったので、私は何かあればいつも来てもらうように頼んでいました。
恒松・M両先生そして、上脇先生がこられ、赤松さんも来たので、「今回は、赤松さんの個人名義で風営の許可をお願いします。」と恒松先生に頼んだのです。
恒松先生は「書類はMさんが作成して、兵庫署には私が行きます。」と受けてくれました。上脇先生は、多忙なようで、顔合わせが済んですぐに議会に帰って行きました。
ですから、詳しい打ち合わせは、残った恒松、M、赤松の3人だけで事務所を出てからどこか喫茶店で話したと思います。私は事務所に残ったので話の内容は知りません。
これが事実で、私が脱税のやり方を教えてもらったのは顧問税理士のY先生からです。
共犯の赤松さんには自分が電話して直接頼みました。もちろん、その後の脱税の様々な手続きは私と赤松さんの2人で敢行しており、上脇さんには全く関係ありません。
つまり、裁判で私が証言したことは全くの嘘で、検察に言われたとおり、検事さんの筋書き通りの話をしたのです。
7、この名義貸しを赤松さんに頼むときに、お互いは赤の他人ということにしようと決めていました。というのも2人が以前からの知り合いということが警察にわかれば、当然名義貸しのことがバレるおそれがあり、それを私は恐れていました。
私が、検察の調べや裁判でも「赤松さんはよく知らない、2、3度会ったぐらい」と話していたのは、このことがあったからです。しかし、一番の理由は私自身の自分の罪を何とか罪を軽くしようという卑怯さです。もうひとつは、検察が上脇先生をなんとか犯罪者に仕立てる為に、赤松さんを名義人にするように私に紹介したのは上脇先生だということを私に強く誘導して調書を作成したことなのです。
本当のところ、私と赤松さんとの付合いは実際にはかなり深く、お互いに信頼関係もあったのです。
最初は平成11年の中ごろ、上脇先生と広告代理店「新通」でサンゴールドの担当をしているE親子と、神戸駅の北側にある「しる一」で食事するときに、赤松さんも上脇先生が連れて来て初めて会いました。
その後も何度か上脇先生と3人で食事をしたり、飲みに行ったりしました。
平成12年12月12日、篠山の自宅に知人や取引先の人たちを呼んで(ぼたん鍋の会)を開きました。もちろん上脇先生を招待しましたが、その時赤松さんも招待していたのです。 確か、赤松さんは電車で来たので、私が篠山駅まで車で迎えに行ったのです。
この時には、記念にみんなで集合写真を撮ったことを覚えています。
当時赤松さんは、貿易関連の会社の経営をしており、私も何度か彼の事務所に行ったことがあります。六甲道駅の北側のビルの3階や生田川沿いのロイヤルホストのあるビルの3階の事務所でした。赤松さんは、何人かの社員を抱えており、なかなかやり手なのかと思っていました。
私が平成13年に脱税で逮捕された時、経理部長Mが4000万円以上横領しており、なんとか少しでも取り返そうとしたときにも、赤松さんが見事に文書を作成して交渉に当たり、Mから返済をするように働いてくれました。多分赤松さんにも20万円の謝礼を渡したと思います。
また、農協から2000万の事業資金の融資を受ける際に、赤松さんの事務所にいた元銀行マンのI氏が融資の手続きをして期日までに融資が受けられたので、経営が助かったこともありました。
この時には、お礼として100万をI氏に渡したことをよく覚えています。
赤松さんの事務所に働いていた年配のYNさんという男性も、赤松さんの頼みでサンゴールドの経理担当に雇いましたが、残念ながらおとなしい人で長続きせず、3カ月ほどでやめてしまいました。
このように、私と赤松さんとの間には仕事などを通じてかなりの信頼関係が有り、私自身が赤松さんをある意味では頼りにしていたぐらいです。
上脇先生の判決文に、(5ページ)
「もともと深い信頼関係があったわけではない西川と赤松が結びつくのに、双方からの信頼が厚い被告人が仲介の労をとったという事態は十分あり得ることであり、(中略)(西川の)その供述内容の信用性は高い。」
とありますが、これは、当然に事実と違い、上脇先生抜きで、私と赤松さんが2人で決めたことなので、判決は間違っています。
その当時は、私は何とか名義人が欲しいと必死でしたし、赤松さんは仕事を探していましたので、双方の利害が一致していたのです。
もちろん、私が嘘の供述をしたために、上脇先生が有罪になったのですから本当に申し訳ないと反省しています。
平成17年5月9日頃に私の事務所に来てからは、上脇先生とはほとんどあっていませんし、私の事務所にこられたのはこの時が最後です。
というのも上脇先生は平成15年に神戸市会議員に再選され、公職に就かれたので、私のほうが遠慮していたのです。
上脇先生とは本当にたまにしか合わず、私からの連絡も年に1度か2度くらいでした。
脱税の実行行為である店の敷金や銀行口座の名義変更などはすべて赤松さんとふたりでやりました。当然のことですが、上脇先生はまったく関与しておりません。
8、赤松さんは、私からの仕事を引き受けてはじめの頃は元気に働いてくれ、私も本当に彼に任せて引退してもいいかなと思って安心していました。それに、私の不得手な書類作成や、文章を作るのが早くて上手でした。
ですから、サンゴールドから赤松さん個人に名義を変える手続きも彼が中心で順調にできていたのです。
私は赤松さんが会社を経営していたこともよく知っていましたし、私自身の金銭のトラブルも過去に見事に解決してくれたことなどもあって、私はこのまま赤松さんが頑張ってくれたら、また事業もうまくいくかもしれないと密かに期待していました。
しかし、店の名義変更も終わり、実質的に赤松さんが店の経営をするようになると、彼の仕事ぶりがだんだんと気になりだしたのです。
一緒に働いているY.Hさんからは、「赤松さんが仕事の時間に遅れる、よく飲みに出ていく、店の女子と個人的に親しくなる、レジの金をごまかして懐に入れる、西川社長の悪口を言って、従業員を扇動している。」などと報告を受けていました。
そして、彼の振る舞いがだんだんと目に余ることが多くなり、私は自分の健康にも不安がありましたので、もし私が倒れたら、病気がちな妻の将来が心配になり、赤松さんに「君は名義人であるが、実際は私の店だ、もしも私に何かあっても、妻のみはるにちゃんとした待遇をしてくれよ。そのために一筆書いてくれ。」と話したのです。
平成17年9月中旬頃に、赤松さんはかなり長い文章で「覚書」を書いて私にくれました。
赤松さんは私が上脇先生を信頼していることを知っているので、何かの時に責任逃れをするためにこの「覚書」の中に「親しい友人の仲介」という言葉を使ったのだと考えます。赤松さんは、失敗したり、自分に不利なときには、必ず言い訳をしたり、他人に責任転嫁をするずるさがありました。
それが、この事件で度々出てくる「覚書」のことです。
もちろん、この件については、上脇先生は知るはずもなく何の関係もありません。
仕事の上での、私と赤松さんとの問題でした。ただ、私は些細なことを根に持つタイプではありませんので、実際には、この「覚書」の存在すら忘れていたのです。
しかし、検察は、この「覚書」を実にうまく使って、あたかも上脇先生と私、そして赤松さんが密接に関連して事件を共謀したように3人の調書を作成したのです。
上脇先生の判決文の中に(5ページ)
「その後の本件犯行の遂行の面からしても、そのような共謀が先行していたことは現実的な話として合理的でありかつ整合性もあること、さらに、赤松の検察官調書謄本(甲7)の内容とも符合し、西川と赤松の間で交わした「覚書」と題する書面(甲50)にある、赤松が、「親しい友人の仲介により」、「名義上の新経営者となる」との文言も、その証言内容を裏付けていることなどによれば、その(西川の)供述内容の信用性は高い。」
とありますが、事実とは全く違っており、この「覚書」は私と赤松さんと2人の間で交わしたもので、上脇先生は無関係です。
これは、上脇先生を罪に落としたいという検察の思惑で、私と赤松さんの調書を作成したからだと思います。
9、私がなぜ勾留質問で上脇先生の名前を出したのか、を話します。
あの時の精神状態は一番つらい時で、自分でもなぜそうしたのかいま考えても不思議な気持ちなのです。
平成19年8月に風営で兵庫警察署に逮捕されて店も財産もなくなり、おまけに病弱な妻の度重なる手術と悪いことが重なり、ほとんど自暴自棄になっていたのは事実です。
逮捕された2月27日は、妻の手術の日でした。
前日に、三田の病院に入院した妻は上腕骨折の手術を27日にする予定でした。
私は本当に必死でした。
「なんで私が逮捕されるんや、赤松のやつや、あいつがベラベラ勝手に話して、すべて私が悪者になっている。体もがたがたやし、金もない、妻も病気で手術や、どないしたらええねん、昨年の風営の事件で3年の執行猶予中や、えらいことや、このままだと実刑に間違いない、何とかして助かりたい。」と必死に考えました。
検事からは、「西川さん、今回で2度目や、今度は重いで、脱税のやり方は誰に教えてもらったのか、あんたの考えではないやろ、よく考えてみいや,それに赤松を紹介したのは誰や」と誘導するように言われて、まるで、上脇先生の名前を言えと言わんばかりの尋問の仕方でした。私が教えてもらったのはY税理士やと何度も名前を出しましたが、検事は全く聞かずに、「それは違うやろ、誰かをかばっているのか、本当のことを聞かせてくれや、西川さんにとって大事なことやで」と脅すように言われました。
その晩は眠れずにどのように話したら刑が軽くなるかとそればかり考えて苦しんでいました。その頃の私は、Y.Hさんに逮捕・勾留という女性にとって、屈辱的な辛い目に合わせたという引け目もあり、感情の起伏の激しい彼女の言うことに逆らえず、彼女の言葉をほとんどそのまま受け取り信用していました。Y.Hさんは、「風営で警察に捕まったのは赤松がタレコミしたからや、社長や私が捕まっている間に店をめちゃめちゃにして、金も全部持っていった。赤松は許せない」と深く恨んでおり、その赤松を「上脇先生はかばっている、二人はぐるや」といつも言っていたので、だんだん私も影響され、「赤松は許せん、全て私のせいにして自分だけが逃げている、あいつこそ逮捕されるべきや、それに赤松をかばう上脇先生もどうかしている」と赤松さんとそれをかばう上脇先生にも復讐してやろうと考えるようになってきていました。
つまり、赤松が憎い思いが、上脇先生に対しても同じように腹が立ってきて、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という心境でした。
翌日2月28日、勾留請求の時、裁判官が分厚い検察の書類を見ながら、「西川さん、今回の事件を計画したのは、上脇市会議員ではないのか。赤松のことも上脇市会議員に紹介されたのですか。」と断定的な口調で聞かれました。
私は精神的に限界の状態でしたし、まともな判断ができないほどでした。
前日の検事の取り調べでも「Y税理士に教えてもらいました。」と話しても、全く無視をされ、裁判官からも、上脇先生の名前が出てきましたので、私は、「検察も、裁判官も上脇先生を疑っている。私が主犯になると、実刑は間違いない。ここで、裁判官の言うとおりに脱税の方法を上脇先生に教えてもらったと名前を出せば、自分の罪がきっと軽くなる、それに、にくい赤松をやっつけるには上脇先生を引きずり込んでやるほうが赤松が困って効果がある。そうや、上脇先生を主犯にすれば、今の地獄のような状況をなんとか切り抜けられる。」とこの時に、はっきり思いついたのです。
それで心の中で、「赤松はひどいやつや、あいつが逮捕されるべきや、赤松のバックにいる上脇先生を巻き込んでも仕方がない状況だ、何が何でも自分が助からないとどうにもならん」と卑怯な考えが湧いてきて、切羽詰った必死の思いで、「赤松と上脇の3人でやった。今回のことは、上脇先生の発案で、それに私が安易に乗りました。」と裁判官に話してしまったのです。
このことは、えらいことを言ってしまったと、あとから大変に後悔しましたが、その時には自分が実刑を助かる方法はこれしかないと浅はかに考えてしまったのです。
上脇先生の判決文に(5ページ)
「そして、西川がこの共謀の点で、あえて虚偽供述をする動機があったかについて見ても、本件における共犯者間の利害関係や立場、利益配分等からみて、西川が本件の主犯となることは明らかであり、被告人を首謀者として本件の共犯に巻き込み、責任転嫁できるような関係にはなく、自己の罪責を軽くするといった動機から被告人を共犯者に引き込んだという可能性は低い。また、弁護人としては、赤松への恨みを被告人に向けたとの動機を指摘するが、(中略)その被告人に対し、赤松と親密な関係にあるというだけで被告人を恨んで、本件の共犯者、主謀者に仕立て上げようと画策したということも考えにくく、そのような動機があったとは認め難い。」.
とありますが、これも事実ではなく、私は自分が助かりたいため(罪責を軽くしたい・実刑をまぬがれたい)と、赤松への強烈な恨み、そして上脇先生にも恨みを持っていたために、上脇先生を首謀者に仕立て上げようと画策することに、私には十分すぎるほど動機があったのです。 そして、申し訳ないのですが、私は嘘の証言をしてしまったのです。
10、検事の取調べは、逮捕されて5日目ぐらいから取り調べが大きく変わりました。
それまでは、脱税の話やら、店の内容など、どちらかというと雑談のような感じでしたが、3月3日ぐらいからと思いますが、私の事件なのに、質問は上脇先生のことを名指しで聞いてきました。
まず、付き合うようになった経緯、どんなところで食事をしたか、飲みに行くときはどんな店か、Y.Hさんの店には何回行ったのか、支払いは誰がしたか、女はいるのか、選挙の時には金を要求しただろう、選挙のパーテイ券はいくらで何枚買わされたのか、金遣いは荒いはずだ、賄賂をもらっていただろう、福原で遊んでいたか、業者との付き合いがあるだろう、赤松とはいつも一緒に遊んでいたはずだ、西川社長は上脇にどれぐらい金を使ったのか、顧問料はどれぐらい払ったのか、何をしてもらったのか、タクシー代は5万ぐらい払ったのか、小遣いはいくら渡していたんだ、などといかにも上脇先生が賄賂をとる悪質な議員だといわんばかりの質問で、悪者にしようとしつこく私に聞いてきたのです。
O検事は、私に質問をしますが、答えを言わなくても「上脇議員に何度も金を渡しました、とかタクシー代も最低5万円は包んでました。生活は派手で酒好きです。」などと勝手にメモしていました。取り調べをしても調書は作成せず、勝手に検事が文章をメモに書いていたのです。 そのうちに、だんだんと話が違ってきて、私の事件からまるで上脇先生の事件のように変わっていったのです。
検事の狙いは、上脇先生が金銭に汚く、賄賂をもらったり、風俗営業の店で遊んだり、業者から金をもらったりしている悪徳議員と仕立てようとしていたのです。
つまり、上脇先生が汚職をしていると疑っていたのです。
これは、うかつに話すと大変なことになると私も考えました。
警察の情報を取るために、金を渡していたとなると、上脇先生は収賄となり、渡した私は贈賄罪でまたやられるかもしれない。
冗談ではない、実刑を免れるために上脇先生の名前を出しているのに、贈賄罪になれば、もっと罪が重くなって実刑が長くなる。ここは、検事の言う通りには絶対にならないぞと思ったのです。
それに一方的にありもしないことを押し付ける検事にも腹が立ち、私も感情的になって、「そんなことはない、上脇議員はそんな人間ではない」と何度も言い返したのです。
すると検事もますますむきになって、大声を出して机を叩きながら「西川、何を言っているんだ、お前がそんなことを言うんなら保釈なんかないぞ、実刑がますます長くなるぞ、それでもいいのか」というのです。
私も、本当に腹がたって「何を勝手に言うとんじゃ、そんなことは絶対ない、してないことは言われへん」と言い返したりしましたが、検事は本気で怒鳴って何度も机を叩いたり、机の脚を蹴飛ばしたりしてしつこく私に迫るのです。
私は検事と何度か大声でやり取りしているうちにだんだんと疲れてきました。
しかし、私が強硬に上脇先生の金銭に関する疑いを否定したので、検事もさすがに、上脇先生が賄賂を取るとか、業者から金をもらっているなどと言うことは、証拠もないのに言えなくなってしまいました。
それからは、検事の取り調べは、上脇先生の収賄罪を諦めたのか、今回の事件の脱税指南とその具体的な方法に変わっていきました。
「今回の事件の黒幕は、上脇議員だろ、全部しゃべれ、赤松も同じように上脇とぐるだったのか、お前がひとりで考えたのではないことは検察はわかっている。全て、上脇議員の指示で動いたんだろ」と勝手に話を作って質問してきますので、私も最初は抵抗をしましたが、自分の置かれた立場が悪くならないように、弁解ばかり話すようになってきました。
それに、執行猶予の身で逮捕されていますので、実刑はできるだけ短いほうがありがたいと考え、だんだんO検事のいいなりになっていきました。
私が否定すると、検事は、「西川、お前裁判官の前で、ちゃんと『上脇と赤松の3人でやりました、上脇の提案に安易に乗ってしまいました』と話してるやないか、これ以上ごちゃごちゃ言うんだったら勾留を延長してほんまのことを言うまでずっと拘置所に入れておくぞ、それに、もし裁判官の前で嘘つきました、本当は上脇の提案がなかった、西川自身が主犯だというならそれでも構わない、刑が重たくなるだけやで、どっちがいいのか、よく考えて返事しなさい」などと何度も責められ、「もう、何を言うてもあかん、赤松には恨みがあるし、実際に二人で違反したから構わないが、無関係の上脇先生を巻き込んでしまうと申し訳ない、そやけど、裁判官の前で私が上脇先生の名前を出してしもうた、このまま検事の言うとおりに上脇先生の指示があったということにしたら、刑が軽くなって助かる。ああどうしよう」と日々、思い悩みながら、日が過ぎていきました。
独房で夜も眠れずにいると、夜中に何度も担当さんが私の入口の前に立って、じっと私を見ているのです。
そして、毛布をかぶっていると、「顔が見えるように毛布をさげろ。」と怒られます。
私は寝不足と、妻の病状の事、これからどうなるのか、このまま出られなくなったらどうすればいいのか、とあれこれ心配で神経がまいってしまい、ノイローゼのようになっていました。
後で、私の部屋の前を何度も担当さんがのぞきに来るのは、私の様子がおかしいので、自殺するかもしれないと、見に来ていたらしいのです。
勾留延長になってからは、とにかく早く自由になりたい、少しでも刑が軽くなりたいとの思いで、検事の言う通りの調書作成になりました。内容については、詳しく覚えていませんが、全て、検察の筋書き通りに「上脇先生が、黒幕で困っていた私に脱税の方法を教えて、名義人に赤松を推薦して、今回の事件を敢行した。今回の事件は上脇先生がいなければできませんでした。」となっています。
赤松についても、あまり知らないし、上脇先生からの紹介だからこそ名義人になってもらったという検察の思惑通りに調書が書かれていったのです。
検察の取り調べは夕方ごろから夜遅くまで続きました。検察の調書といっても、私の目の前では作成していません。事前に検察で話を合わせて調書を作成してきているのです。ですから、私は、出来上がった調書の末尾に署名指印するだけでした。
もちろん、これは検察が上脇先生を逮捕したいがために勝手に作った調書であり、事実ではありません。
それに事実は、赤松も私に働きたいと申し出て、私と赤松との合意の上で名義人になってもらったもので、上脇先生には全く関係ないことなのです。
しかし検察としては、どうしても上脇先生を逮捕して罪を着せたいと考えて、私の調書を検察の思惑通りに作成して、私に署名を迫ってきたのです。
それに、私にも少しでも罪を軽くしてもらって、実刑を逃れたいという切実な願いがあり、検察の誘導にかかって、自分から「上脇先生に教えてもらった」と裁判官に話した弱みがあったからです。
11、この事件の黒幕は上脇先生としたい検察は、友人の赤松さんを使って名義貸しをさせたとしたかったのです。
それに「覚書」をうまく利用して、いかにも上脇先生が全て知った上で赤松さんを私に紹介したことにしたのです。
もちろん、この「覚書」は私が、赤松さんの不誠実な仕事ぶりを心配して、彼に裏切られないために、赤松さんに要求して書かせたものです。
上脇先生はこのことは全く知らず、私と赤松さんのふたりだけの秘密だったのです。ただ、私自身、検事に見せられるまで、この「覚書」のことは忘れていました。
とにかく、検察のやり方はずるくて、しかも自分たちが作った話の通りを調書にして署名をさせるという卑劣なやり方をしました。
私が黙っていると、「みんな上脇が仕組んだことや、赤松も全部話しているんや、西川さんもわかっているんやろ、見てみい、上脇が赤松に指示して決めているんや、やはり黒幕は上脇や、あんたもちゃんと認めてるやろ」と勝手に決め付けて調書を作成していくのです。
もう、私の取り調べは、すべて検事さんの言うとおりに調書が作られていき、私は最後の署名をしていくだけになりました。 この頃は、検事さんに逆らう気力もなく、次々と「上脇先生が脱税の指示をして、私と赤松が実行犯として犯罪をした」という検事の思惑通りの調書が作られていったのです。
12、上脇先生の裁判で、今回の事件のやり方は、誰に教えてもらったのかとの裁判長の質問に「上脇先生に教えてもらいました」と答えたのは事実と違って、嘘の証言です。
検事から、上脇先生の裁判の前に検察に呼び出しを受けました。
検察庁に行き、エレベーターで4階か5階の部屋に行ったことを覚えています。
そこで検事さんに、「西川さん、あなたは検察の証人です。裁判での証言は、検察の調書のとおり話すように。今回の事件は、上脇議員が黒幕ですべてを指示していたのです。赤松も上脇が紹介したのです。とにかく、検察の取り調べのときと、同じことを証言するように」と強く念を押されました。
もし、違う事を話すと西川さんにとって不利になるとまで言われました。
「上脇議員が関係ないとなったら、西川さんが主犯であることを自分で言うのだから刑は重くなるよ、わかっているね。馬鹿なことを考えずに検察で言ったとおりに証言してください。」
このようなことを何度も強く言われましたが、この頃の私は生きる気力もなく、検事に逆らうことなど全くない、まるで抜け殻のようなおとなしい羊のようになっていました。
私は、上脇先生の裁判で、検察の証人として検事の言う通りの嘘の証言をしたのです。
私と赤松さんとは事件のあと、平成20年5月の裁判で、「上脇先生に教えてもらって今回の事件を起こしました。」と言ったおかげで裁判官が罪を軽くしてくれ、実刑を免れて私は懲役1年6月・執行猶予5年の判決が確定したのです。
このことは、私と赤松さんの判決文の中に、
「被告人西川は平成13年に経営していたサンゴールドの脱税が発覚し、加算税、延滞税等を含む滞納税金を納付すべき立場となりながら、経営不振からその納付が困難になった後、その窮状を相談した共犯者上脇から経営の仮装譲渡を提案されると、同脱税に係る法人税法及び所得税法違反の各罪により受けた有罪判決(懲役1年6月・4年間執行猶予)の執行猶予期間中の身でありながら、これを実行することを決意し、被告人赤松に協力を依頼するなどして計画を具体化し、賃借保証金債権の仮装譲渡手続を行うなど、本件の首謀者として、計画及び実行の各段階で中心的な役割を果たしている。 (中略)
西川は滞納税金を1億円以上納付してきており、当初から滞納処分免脱の意図があったとはいえないこと、仮装譲渡という本件の手段を発案したのは被告人らではない(西川・赤松)こと、被告人らはいずれも事実をおおむね認めて反省の態度を示していること、(中略)その執行を猶予するのが相当であると判断した。」
とありましたので、はっきりとわかりました。
しかし、本当のところ、私は検察を信用していなかったので、多分厳しい処分を裁判でも言われるかもしれないと、自分の裁判では直前まで実刑を覚悟していました。
私の弁護人からも「西川さん、執行猶予中やから3年は辛抱してください」と言われていたので、因習の深い篠山の自宅に病弱の妻を一人にできず、自宅を処分して、兵庫区内の賃貸マンションに引っ越したのです。それだけに執行猶予の判決は本当にありがたかった。
上脇先生には申し訳ないが、判決を聞いた時に、腹のそこから「良かった、助かった。」と喜びが湧いてきたのを鮮明に覚えています。
13、いよいよ平成21年3月、上脇先生の裁判の証言台に立っても、まともに顔を上げられず、質問に緊張しながら答えていきました。
自分のなかでは、上脇先生のことをできるだけ罪が軽くなるようにせめていいことをたくさん話して行こうと決めていました 実際、上脇先生とは本当に良い付き合いをさせていただきましたし、尊敬もしていました。
私は、自分の仕事のことで、弱音を吐いたり、上脇先生に愚痴や悩みを話したことはありませんでした。
当然、会社の経理や帳簿などを見せたこともないし、経営の内情など話したことはありません。もともと上脇先生は金のことに欲得などない人です。
つまり、何も私の会社のことを知らない上脇先生が、私に脱税指南などできるわけはないのです。
赤松さんについては、店をめちゃめちゃにされた恨みもありますし、国税でも私が全て悪いと証言して、私の不利になることばかり言っていたので、そのとおり話したのです。
私はできるだけ質問に丁寧に答えていましたが、やはり、この事件のことについて、誰に教えてもらったのかという質問には、検事からもなんどもきつく言われていましたので、「上脇先生に教えてもらいました。赤松さんも紹介してもらいました。」と答えるしかなかったのです。
とはいうものの実際には、Y税理士に脱税の方法を教えてもらっていたので、上脇先生にいつ、どこで、どんな言葉でなんと言われて教えてもらったのかについては、全くの嘘なので何を聞かれても「覚えていません」としか答えられなかったのです。
最後に裁判長から再度「今回のことは誰に教えてもらいましたか」と聞かれてとても辛い気持ちで、「上脇先生です」と答えました。
法廷の中では、周りを見る気もなく、ほとんど下を向いて質問に答えていました。
おそらく、被告人席には、弁護士と一緒に上脇先生も座っていると思いましたが、申し訳なくて1度も顔を上げることができませんでした。
上脇先生の判決文の中に(6ページ)
「なお、記憶がないと述べて具体的な供述を避けたり、 被告人に遠慮しているような態度も見受けられた点については、(中略)いわば本件により被告人に迷惑をかけたという関係になるから、検察側に立って、被告人に不利なことを詳細に述べることには躊躇があったとしても不自然とは言えず、このようなあいまいな供述態度が見られたことでもって西川証言の信用性がなくなるものではない。」
とありますが、これも検察の思惑通りの解釈で、事実と違います。
そもそも上脇先生が私に脱税の方法を教えたこともなく、全くのでたらめなので、いつ、どこで、どんな言葉で話したかなど証言できるはずもないのです。
また、遠慮したというのはまさにその通りで、自分が助かるために嘘の証言をして、上脇先生に申し訳ない気持ちでいっぱいだったのです。
全ては、私が実刑を免れるために真っ赤な嘘をついたことから、結果として上脇先生が有罪になったのです。
誤っても済むことではありませんが、何とか真実を話して、上脇先生の冤罪を晴らして欲しいと切に願っています。
14、結論
今回の事件は、私と赤松さんの2人で全てやりました。
私が赤松さんに電話をして、直接赤松さんと私の事務所で話しあって、お互いに納得した上で名義人になってもらいました。
私に脱税のやり方を教えてくれたのはY税理士で、このことはいっしょに私の事務所で聞いていた恒松先生もよく知っております。
会社の経理や内容を全く知らない上脇先生は、税金のことなど何も知らないのです。無実の罪で、人生を狂わせてしまった上脇先生にはお詫びの言葉もありません。
検察の誘導に乗り、実刑が怖くて嘘の証言をした私がすべて悪いのです。
また、上脇先生を逮捕して無理やりに罪を着せた検察にも腹が立ちます。
是非とも再審開始を認め、上脇先生の無実を証明してください。
私は、裁判でもどこでも証言させていただきます。
西川 聖史 押印
認証
嘱託人西川聖史は、法廷の手続きに従って、本公証人の面前で
この書面の記載が真実である事を宣誓した上、これに署名押印した。
よってこれを認証する。
公証人 署名 押印